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2017年 春の韓国旅行 その5(漢江・切頭山ウォーキング) [韓国旅行]

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7月になったのに未だに4月の話題を引きずっております...
さて、韓国旅行3日目の午前中はソウルウォーキングツアーに参加しました。以前「駱山城郭コース」に参加した時とても興味深いお話をたくさん聞けたので、今回の旅行中にも是非参加しようと思っていました。

ソウルウォーキングツアーはコースがたくさん用意されていますが、今回は宿泊地の孔徳から近い地下鉄の合井(ハプチョン)駅からスタートする「漢江・切頭山聖地コース」にしました。私の数少ない韓国歴史ドラマ視聴歴が多少役に立ったような、これまで見てきた韓国歴史ドラマが全部つながったような気持ちになったコースでした。

漢江・切頭山聖地コース↓
http://japanese.visitseoul.net/walking-tour/%E6%BC%A2%E6%B1%9F%E2%80%A2%E5%88%87%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E8%81%96%E5%9C%B0%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9_/1120?curPage=1

ソウルウォーキングツアー↓
http://japanese.visitseoul.net/walking-tour
  
韓国旅行記バックナンバー

その1 その2 その3 その4

ソウルウォーキングツアーは文化観光解説ボランティアさんの詳しい解説を聞きながらウォーキングを楽しむツアーです。しかも無料。観光予定日の3日前までにサイトから予約します。

宿泊地の最寄り駅「孔徳」から集合場所の「合井(합정/ハプチョン)は、地下鉄6号線で約7分で到着。コース内容に興味があったことに加えて、宿泊地から集合場所が近かったこともこのコースを選んだ理由の一つです。

◆合井(합정/ハプチョン)◆

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地下鉄合井駅7番出口

合井駅7番出口前でガイドさんと合流してツアーがスタートです。この日は私たち以外の参加者はいませんでした。まずはコースの説明がありました。このコースは観光スポットが点在しているので歩く距離が長いコースだそうです。

ウォーキングツアーは雨でも開催されますが、この日はとても良い天気に恵まれました。
駅周辺には高層ビルが建ち並んでいます。

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合井駅周辺

左側は麻浦漢江プルジオというマンションで手前にあるのがディライトスクエアというショッピングモール。中には教保文庫もあります。右側はメセナポリスというショッピングモール。最近こうしたビル群が建ったそうです。



◆鄭夢周(チョン・モンジュ)の像(정몽주의 동상)◆

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鄭夢周(チョン・モンジュ)の銅像

少し歩くと「楊花大橋」のたもとに大きな銅像が建っているのが見えます。後ろ姿なのですが、楊花大橋を通行する車からはきっと正面が見えるのでしょう。
これは高麗時代の儒学者の鄭夢周(チョン・モンジュ)の像です。韓国旅行二日目に見てきた全州郷校の大成殿にも祀られているほどの人物。韓国ドラマ「チョン・ドジョン」や「六龍が飛ぶ」など朝鮮建国の頃の歴史ドラマには必ず登場する人物です。高麗を内側から立て直そうとしたチョン・モンジュと新しい国を建てることで国を立て直そうとしたチョン・ドジョンが対立し、その後イ・ソンゲの五男イ・バンウォンによって善竹橋で殺害されました。銅像の下の橋の欄干はまさにその善竹橋をモチーフにしています。

それにしても、どうしてこの場所に銅像が? 実は楊花大橋をかけた人物がこの銅像を建てたのだそうです。その人物とは現代建設の会長の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏。最初に橋がかけられたのは1965年のことで、今の橋は新しく架け替えられたものだそうですが、旧橋を現代建設が請け負い、会長の鄭周永氏はチョン・モンジュと本貫は違うけれど同じ姓の尊敬する人物として橋のたもとにチョン・モンジュの銅像を建てたのだそうです。この銅像はツアーコースに入っていないので、銅像を遠目に見ながらの説明でした。

引き続き高速道路の脇道を西へ進んでいきます。

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これは振り返って撮った写真
壁の向こうは住宅街 この道はあまり知られていないそうです

0005P4228834.JPG歩道の横は江辺北路という高速道路で、無料開放されています。

後になって地図で歩いた道を確認したら、YGエンターテインメントのビルの近くを歩いていたことに気が付きました!


◆望遠亭(망원정/マンウォンジョン)◆

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望遠亭の外三門

歩道をずんずん歩くとやがて門が現れました。全州でもよく見た三門です。
入り口が三つありますが、真ん中の門の屋根が高くなっています。これは身分の高い両班が乗り物に乗ったまま門をくぐるのに頭がつかえないようにと高くなっているのだとか。この門構え(솟을삼문/聳三門)を見ただけでも身分の高い人物の建物だとわかるものだそうです。両班以外は両脇の門から出入りします。私たちも右側の門から入ります。

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急な石段を上って東屋に入ります。
この建物は「望遠亭(망원정/マンウォンジョン)なのに、扁額は何故か「喜雨亭」と書いてあります。

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望遠亭からの景色

見晴らしの良い展望台のような所で、道路の向こうに漢江も見えます。手前の江辺北路では車がひっきりなしに通っています。昔はもっと漢江が近かったそうです。

この建物はハングルを作ったことで有名な世宗(4代王)の兄孝寧大君(ヒョリョンデグン)の別荘だったもので、世宗が干ばつを心配していた時、恵みの雨が降ったので、「喜雨亭」という名前になったとか。その後所有が成宗(9代王)の兄月山大君(ウォルサンデグン)になって「望遠亭」という名前になったとのこと。この東屋は色々な記録も残っているそうで、よく王や大臣が訪れ景色を眺めながらいろんな話をしていたそうです。1925年に洪水で建物が流されてしまったけれども、近年復元されたものだとか。

東屋の中で、ガイドさんからipadの画像を見ながら漢江の説明も受けました。漢江は北漢江と南漢江という二つの川が両水里という場所で一つになっているので、源流も二つありますが、長い方の南漢江が源流ということで、太白市にある源流の画像を見せていただきました。水源は검룡소(倹龍沼)というそうです。

また漢江は物流の輸送路としての役割が大きかったことや、近代になるとアメリカやフランスの船が漢江をさかのぼってこの近くまで来た話なども画像とともに伺いました。

ガイドさんからは、世宗の兄孝寧大君のお話も伺いました。世宗が兄二人もいるのに王になったいきさつはドラマ「大王世宗」を見ていたので理解しやすかったです。王位をめぐって兄弟で血の争いが絶えなかった時代です。二番目の兄孝寧大君は世宗が王になった後も5年間は山で隠遁生活を続け王になる意志が全くないことを示したのだそうです。そしてこの東屋で静かに暮らしなんと91才まで生きたとのこと。一方激務だった弟世宗は54才でこの世を去り、長兄の譲寧大君が68才で亡くなっています。現代でも91才は長生きだと思いますが、この時代で91才まで生きられたなんて!
  
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「喜雨亭」の「喜」の字に注目

ところで「喜雨亭」の「喜」の字がちょっと変だなというのは日本人ならすぐに気が付きますよね。これは漢字をわざと少し変えて書くもので「喜」は 결핍법(欠筆法)といい、「吉」の下の点がなくなっています。

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「望遠亭」の「望」の字に注目

また「望遠亭」は建物の外側の扁額で確認できますが、こちらも「望」の漢字が違っていて、「亡」が「臣」みたいな字になっています。これを개자법(改字法)というそうです。

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東屋に「望遠亭 復元記」というのもあります。例によって日本語訳してみました。

  望遠亭 復元記

北漢山を背にして漢江を見下ろすこの地に世宗の兄 孝寧大君の別荘を建てたのは世宗6年(1424年)のことだ。
翌年世宗は長引く干ばつに民たちの暮らしを心配しここに立ち寄った時、ちょうど恵の雨が降り、喜びながら亭子(東屋)を「喜雨亭」という文字を書いて与えた。
その後成宗15年(1484年)、成宗の兄 月山大君が亭子を大きく直し、名前を望遠亭に変えた。
中宗実録に 上 觀稼于西郊 仍駐于望遠亭 觀水戰 御題洞庭秋月 五言律 令扈駕之臣製進 沈彦光 蘇世讓 崔世節 趙仁奎 優等 命賜弓各一張 と記録されているのを見ると、歴代王たちが西郊一帯に時折出かけて、農事の様子を伺ったり、民たちを激励した後、この亭子に上がって漢江上の水軍訓練を観戦し、随行の重臣に詩を作って捧げるようにし、優等者に弓を一張ずつ賞として下賜するなど、文武精神を共に涵養していた場所だった。
1925年乙丑年、大洪水で無くなっていたのをソウル市では1986年漢江辺 文化遺跡復元計画の一環で東国大学校の発掘調査団の文献考証と現地発掘調査の結果、建物址遺構は明らかにできないが、残っていた丘には現在、庭園石に見える怪石が残っていて、長礎石に使っていた破損した石材が残っており、卞李良の喜雨亭記を基に金星総合建築事務所で復元設計し、4億4300万ウォンの事業費をかけて望遠亭の復元に着手した。
建物の規模は敷地350坪に亭子が延建坪40坪の正面三間、側面二間で柱は石材四角柱で韓式二層楼閣の八作瓦屋根だ。そして東側に単層の切妻屋根形式で7.5坪の聳三門を建てた。
復元に要した主要資材は、木材36,083才、花崗岩38.51立方メートル、瓦12948枚などだ。建物施工は(株)大林産業で、周辺の造景は翰林総合造景で1988年6月に起工し、1989年7月に竣工したが、これは伝統文化を正しく保存伝承しようとする我々の願いであり、歴史の川、民族の夢を帯びた漢江沿岸に生きている文化遺構を復活するためソウル市で復元された。
1989年7月
ソウル特別市長 高建
文化財委員 金永上 孫宝基 文明大

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望遠亭

一人で訪れていたら東屋に上がって、ぐるっと景色を眺め写真を撮って、5分ほどで去ってしまうでしょうが、ガイドさんの説明のお陰で興味深いお話を色々伺うことができました。

望遠亭を後にして更に西へ
歩道は公園として整備されています

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公園として整備された中を通って漢江の川辺にいきます

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途中でライラックの木を見つけました

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ライラック(라일락)

冷涼な地域の花木だけあって、私の家の周辺ではあまりみかけないので、嬉しがって写真を撮りました。


◆漢江(한강/ハンガン)◆

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漢江が一望できる場所に降りてきました
遠くに楊花大橋(ヤンファデギョ)とその向こうに国会議事堂、そして楊花大橋の先に仙遊島(ソニュド)が見えます。

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ペットボトルの水も「아리수(アリス)」

漢江はそのむかし(高句麗時代)に「아리수(アリス)」と呼ばれていたとか。それでソウル市の水道水のことも「アリス」というそうです。

漢江沿いの遊歩道を東へ進みます

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赤い橋は城山大橋(성산대교/ソンサンデギョ) 川辺はサイクリングロードと遊歩道が整備されています

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楊花大橋(양화대교/ヤンファデギョ)の方へ進んでいきます

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漢江の中州の仙遊島(선유도/ソニュド)

小さな東屋(仙遊亭)と船着き場が見えます
この時の川面は風の影響で右から左へ流れています

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楊花大橋(양화대교/ヤンファデギョ)

Zion.Tが歌うヒット曲がありますね
https://youtu.be/uLUvHUzd4UA

実は楊花大橋はかつて自殺の名所だったとか。
だから子供の頃、いつもタクシーの運転手のお父さんが電話で「今、楊花大橋にいる」と言っていた記憶が、大人になってから、あの頃何か悩みを抱えていたのかと思えてくるという歌詞がちょっと胸に響きます。

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蚕頭峰船着場

楊花大橋とその次の地下鉄の鉄橋の間にある잠두봉선착장(蚕頭峰船着場)には「The 9 유쉘 레스토랑」と書かれた船がとまっていました。船を利用したレストランのようです。

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堂山鉄橋

こちらは地下鉄2号線の鉄橋(堂山鉄橋/당산철교/タンサンチョルギョ)です
左側が合井駅方面、右側が堂山駅方面
停泊中の船はいつからとまっているのか??

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クルシリョ教育館

堂山鉄橋の手前にある建物はカトリックの꾸르실료교육관(クルシリョ教育館)
クルシリョ(꾸르실료/Cursillo)は短い講習という意味のようです。黙想会など信者のための研修施設なのかしら?

まずはここを通りすぎて、堂山鉄橋をくぐった向こう側に進みます。

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国会議事堂が近くに見えます。

旅行中はちょうど大統領選挙の真っ最中でした。そして日本では朝鮮半島で緊張が高まっているとの報道が連日なされていた頃でした。韓国に来てみると特に緊張感漂う感じはなく、報道にかなり温度差を感じました。一応「たびレジ」の登録はしてきまし、外務省の情報と韓国ニュースサイトもチェックしていましたが、心のどこかに本当に小さな不安が絶えずありましたし、同時にこの平和な日常が壊れないことを祈っていました。


◆楊花津船着場址(양화진 나루터/ヤンファジン ナルト)◆

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切頭山

断崖と、その上に十字架が見えます。次の目的地「切頭山」のようですが、その前に「楊花津船着場址(양화진 나루터/ヤンファジン ナルト)の説明がありました。

かつて、漢江が物流の大動脈の役割をしていた頃、この楊花津(ヤンファジン)は船着き場であり、飢饉の時には穀物を分配した場所であり、さらに軍事拠点にもなっていた場所だったそうです。人と物資の集まるにぎやかな場所だったのでしょうね。またかつては岩壁の下すぐ近くまで水がきていたそうです。

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楊花津船着場だった場所

しかし、今はご覧の通り当時を伺い知るようなものは特にありません。
いくつか案内板や石碑があったので訳してみました。

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楊花鎮津址
ソウルと済物浦(仁川)、江華方面を結んでいた渡し場

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楊花渡し場(양화나루/ヤンファナル)

楊花ナルは漢江ナル、三田渡ナルとともに朝鮮の三大ナルの中の一つだった。楊花ナルは金浦や江華方面へ行く要所だったが、楊花(ヤンファ)という名前が付いたのはここに柳が多かったためだと言う。
朝鮮初期、月山大君、姜希孟(강희맹/カン・ヒメン)、徐居正(서거정/ソ・ゴジョン)などがソウルの美しい姿10か所を選び「漢都十詠(한도십영/ハンドシビョン)」を詠ったが、その中の一つがここ楊花ナルで白い雪原を歩く姿。楊花踏雪(양화답설/ヤンファタプソル)だ。かつて蚕頭峰(잠두봉/チャムドゥボン)の下の楊花ナルから船に乗れば向かい側の仙遊峰楊花ナルに着いたが、今は楊花大橋が代わりをしている。

雪景色の楊花ナル。冬になると漢江が凍結すると聞いたこともありますし、どんな景色になるのでしょうね~
蚕頭峰(잠두봉/チャムドゥボン)という名称が出てきました。弘大にある小さな山(臥牛山)からうねうねと続く稜線が漢江の川沿いで隆起している様子がまるで蚕が頭をもたげた形に似ているからついた名称ですが、その後この地がカトリック迫害による刑場になったことで、「切頭山(절두산/チョルトゥサン)と呼ばれるようになったそうです。しかし、「切頭山」はどうもイメージ的に...ということで、もともとの名称「蚕頭峰」と表記しているようです。

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楊花ナル・蚕頭峰遺跡

指定番号:史跡第399号
時代:朝鮮時代
所在地:ソウル特別市麻浦区合井洞88-16番地ほか

この一帯は朝鮮時代、船に乗って漢江を渡っていた楊花ナル址と開化期に多くのカトリック信者たちが処刑された蚕頭峰遺跡がある場所だ。江辺道路と地下車道建設、近郊地域の開発で周辺環境が破壊されていたが1997年にこの一帯を史跡として指定し保護している。楊花ナルはソウルから陽川(ヤンチョン)を過ぎて江華(カンファ)へ行く朝鮮時代の重要な幹線道路上にあった交通の要衝だった。ここは、舟兵の訓練場であり、凶年に官が困窮した民を助けていた賑恤(貧しい人·罹災者などを救うために金品を施与すること)の場所でもあった。楊花(柳の花)ナルという名前は近くの河原にネコヤナギが多かったために付いた名前だ。ここは周辺の景観が素晴らしく舟遊びの名所として広く知られていた。蚕頭峰(チャムドゥボン)は楊花ナルの前にそびえる高さ20メートルの岩壁で、近来には切頭山(チョルトゥサン)として知られている。ここは1866年の丙寅洋擾(ビョンイニャンヨ)の時、防御基地として活用されていたし、多くのカトリック信者たちが処刑されたりもした。カトリック教会では1966年の丙寅殉教100周年を記念して蚕頭峰の頂上に殉教者たちを称え、韓国カトリック殉教者博物館を建てた。この記念館に殉教聖人28人の遺骨をはじめ各種遺品、資料を展示し殉教史跡地として造成した。
楊花(ヤンファ)という地名の由来は、柳の木が多かったとか、ネコヤナギが多かったなど諸説あるようです

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この石碑には詩が刻んでありました。
下手な訳ですが、韓国語と一緒にご紹介します。
영혼의 강 
魂の河

시 : 이인평 아우구스티노 
詩:イ・インピョン アウグスチノ
글씨 : 동고 이석수
文字:東皐 イ・ソクス

한강아, 너는 물이 아니라 피로 흐른다. 
漢江よ、お前は水でなく血として流れる

물빛 푸른 고요가 아니라 
水色の静けさでなく

순교의 터, 거룩한 혈관을 흐른다. 
殉教の地、聖なる血管を流れる


핏물 삼키고 가는 어둠이 아니라 
血を飲み込んでいく闇でなく

물결 가득 영혼의 빛살로 흐른다. 
波立つ魂の光として流れる


한강아, 너는 피의 역사를 굽이쳐 
漢江よ、お前は血の歴史をうねり

우리들 가슴에 쏟아 붓고 가는 
我々の胸に注ぎ込む

놀란 침묵이 아니라 성혈로 흐른다. 
驚きの沈黙でなく聖血として流れる

詩碑の表面をよくよくみると、血が流れたような筋がついています。
この場所で多くの血が流れた事実をいつまでも記憶するためなのでしょうか。
余談ですが、この詩を書いた詩人のイ・インピョ氏は最近、詩集「塩の言葉/소금의 말」で「第20回韓国カトリック文学賞」の「新人賞」を受賞したそうです。

さて、いよいよ「切頭山」へ


◆切頭山殉教聖地(절두산순교성지/チョルトゥサンスンギョソンジ)◆

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まずはこのような造形物がありました。
殉教者たちの像がずらりと並んでいるところに長崎の二十六聖人像を思い出しましたが、遠目でみると、中央は頭のない胴体で、右側に切り離された頭部が横になっているのです。それに気づいた瞬間ギョッとしました。ストレートな表現方法にちょっとびっくりです。

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カトリック殉教聖地
ここは1866年から67年にかけて多くのカトリック信者が
教会と天主に忠誠を尽くしたため迫害を
受け殉教した神聖な地である

切頭山殉教聖地↓ 
www.jeoldusan.or.kr

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手の平に穴が開いているのでイエス・キリスト像なのでしょうね
右手に持っているのはシュロの枝のようです

敷地内には多数の樹木があり、樹木名の表示もありました


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これはマメナシ(콩배나무/コンペナム)
日本では東海地方に自生する絶滅危惧種だとか


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また敷地内にはこのような迫害時に使用された恐ろしげな刑具の展示などがいくつもありました


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殉教者のための記念像


1866年の丙寅迫害(병인박해/ビョンインバケ)の時に切頭山で殉教した李義松(イ・ウィソン)とその妻と息子をモチーフにした像です。
有名な彫刻家チェ・ジョンデ教授の作品だそうです。


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それにしても強烈な名称です


儒教を国の体制に取り入れている韓国ではキリスト教の教義が合わないということで、何度か大きな迫害がありましたが、1866年の迫害が特に酷かったそうです。この迫害の主導者は興宣大院君(흥선대원군/フンソンデウォングン)。李氏朝鮮第26代王の高宗の実父です。李昰応(イ・ハウン)という名前でもよく知られている人物です。

ここで「雲が描いた月明かり」にもちょっとだけ関連するのですが、「雲が描いた月明かり」の主人公イ・ヨンの実在の人物、孝明世子の正妃であり趙万永の娘の、ドラマではハヨンという名前だった女性を思い出してください。ドラマと史実は全く違う生き方をした女性なのですが、史実では憲宗(24代王)の母であり神貞王后と呼ばれています。その憲宗が跡継ぎのないまま亡くなると、孝明世子の母である純元王后が哲宗(第25代王)を担ぎ出し、また安東金氏が政治の実権を握る世の中になります。その後、哲宗が亡くなった後、神貞王后と李昰応が相談して李昰応の次男(高宗)を孝明世子と神貞王后の養子にして国王にしたのです。ということで1866年の迫害(丙寅迫害)は孝明世子の義理の息子である高宗が王の時の出来事です。

日本ではこの年に薩長同盟が締結され、翌年には大政奉還が成立した幕末の激動の時代です。
韓国も500年続いた李氏朝鮮でしたがこの頃になると、最初にチョン・ドジョンが作った理想国家の有り様も変わってきてしまい、内部で様々な問題が出てくるようになり、また世界の列強が通商を迫ってきた時代の出来事です。

この頃政治の実権を握っていた興宣大院君(李昰応)は列強を警戒し鎖国を強化しました。その中で儒教を擁護し、キリスト教や東学を弾圧するようになり、1866年に丙寅迫害(병인박해/ビョンインバケ)という大迫害が起きるのです。この迫害から100年経って、韓国のカトリック教会が切頭山一帯の土地約4500㎡を買い取り、1967年に切頭山殉教記念館が完成したとのこと。今年は建物ができて50周年になります。


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博物館へ

「IN MOMENTUM」というタイトルで切頭山殉教記念館開館50周年を記念した収集遺物の特別展示がありました。この中は写真撮影不可でした。

迫害の様子を描いた絵や文書、また宣教師の使ったミサ関連用具、聖書や聖歌集など韓国のカトリックの歴史に関する様々な展示がありました。

博物館の展示については↓(2017年10月21日まで)
http://www.jeoldusan.or.kr/renew/museum2.php


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またまた強烈なインパクトのある彫刻作品と
その後ろに切頭山の全景を写した写真が展示されています

この人物は「雲が描いた月明かり」にも登場した丁若鏞(정약용/チョン・ヤギョン)の甥で司祭(神父)になった聖丁夏祥(정하상/チョン・ハサン)パウロです。 1839年の己亥迫害(기해박해/キヘバケ)で殉教し、1984年に列聖されました。この作品は2015年カトリック美術公募展で最優秀賞を受賞した作品です。

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こちらは聖堂 この日は入りませんでした

次は庭園の散策をします

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金大建の銅像
博物館から降りてくると十字架のイメージの広場と大きな銅像が目に入りました。
これは韓国人として初の司祭(神父)になった聖金大建(キム・デゴン)アンドレアの像で、1846年の丙午迫害(병오박해/ビョンオバケ)の時に26才で殉教し、1984年に列聖された人物です。

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ライラックの花
切頭山は様々な樹木が植えられて整備されています

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ルルドのマリア像

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ちょっとわかりにくい場所にフランスのルルドのマッサビエル洞窟の写真がありました

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斥和碑

漢江が見える場所に「斥和碑」(척화비/チョクヮビ)がありました
韓国の歴史に関する書籍などで度々画像を見たことがありましたが、石碑を見るのは初めてです。と言っても、切頭山にある斥和碑はレプリカだとか。
洋夷侵犯 非戦即和 主和売国
(西洋の蛮族が侵入しているのに、戦わないのは和親ということで、和親を主張するのは売国である。)

戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
(我々の子孫万代に警戒しよう。丙寅年≪1866年≫に作り辛未年≪1871年≫に建てる)

1866年の丙寅迫害でフランス人神父9名が殺害されたことがフランスに伝わり、フランス艦隊が江華島を占領したため戦闘になり結局フランス軍が撤退します。その後、アメリカの船とも問題が発生しその後アメリカ軍との戦闘でも相手を撤退させた事件が起きました。この事件を通して興宣大院君は鎖国政策を強化し、その一環として1871年に「斥和碑」を全国に建てたそうです。しかしその後1873年に大院君は失脚し、更に1882年には「斥和碑」が撤去されることになったとか。
墓石に石材が使われるのは耐久性、永続性が優れているからだと聞いたことがあります。この「斥和碑」も木札でなくわざわざ石碑にしたのは永続性の気持ちがあったから?それにしても効力は短期間で終わったようです。それだけ激動の時代だったということでしょうか。

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오성바위(五聖石/オソンパウィ)

大きな岩ですが風化を防ぐためガラスに覆われています。
1866年3月、丙寅迫害により忠清道保寧で殉教した5名(全員聖人)が刑場に向かう途中で休憩した岩だそうです

公園の中に「十字架の道行き」があります
「十字架の道行き」とはイエス・キリストの受難を14場面に描いたもので、それぞれの場所で祈りながらキリストの受難を追想し祈るもので、よく聖堂の壁画としてかけられていますし、四旬節になるとお祈りがあります。

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第一留 イエス、死刑の宣告を受ける

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第九留 イエス、三度十字架の下に倒れる

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第十留 イエス、衣服をはがされる

このような銅像を順番にたどって公園内を一周しました

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ブログ名に「白い花」が入っているので、白い花を見るとつい撮りたくなります。
これは名札をちゃんと確認しなかったので...「マメナシ(콩배나무)」だと思いますが...

実は今回のウォーキングで是非「이팝나무(イパムナム)」の白い花を見たかったのですが...漢江沿いに1本だけ若木を見つけましたが、まだ新芽が出たばかりの状態でした。ちょっと時期が早すぎたようです。
「이팝나무(イパムナム)」は日本で「ヒトツバタゴ」とか「なんじゃもんじゃ」と呼ばれている樹木です↓↓

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これは数年前の5月に東京 立川の昭和記念公園で咲いていたヒトツバタゴ
韓国でこの花を見たかったのですが、次回のお楽しみにします

次の場所へ


◆楊花鎮旧跡(양화진의 옛터/ヤンファジネ イエット)◆

地下鉄2号線を境にして反対側へ行くと広場があり、中央に長方形の石で囲まれたものがありました。
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ここが楊花鎮のあった場所です。
案内板を例によって訳してみます

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楊花鎮旧跡
この一帯は朝鮮時代、国防の要衝の地だった。
英祖30年(1754年)には漢江水路の警備を通して首都を防御するため
ここに軍鎮が設置され常備軍が駐屯した。
この場所を楊花鎮公園として造成し
このような施設を知らせるため
旧跡の一部を長台石で区画した
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建物の土台になる長台石は身分によって積み重ねる段数が決まっていたとか。


◆楊花津外国人宣教師墓苑(양화진외국인선교사묘원/ヤンファジンウェグギンソンギョサミョウォン)◆

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続いて楊花津外国人宣教師墓苑(양화진외국인선교사묘원)へ
HP↓
http://www.yanghwajin.net/v2/index.html


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こちらの宣教師たちはプロテスタントの宣教師たちで、カトリックの迫害後にやってきたので、迫害は受けていないそうです。少しのタイミングの差で生死が分かれたような。複雑な気分です。

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J.W.ヘロン(1856-1890)とその家族のお墓

韓国ドラマ「済衆院」にも登場していたヘロンはこの楊花津で初めて埋葬された人物。韓国で初めての西洋医学を取り入れた病院「済衆院」の2代目院長として診療中に赤痢で亡くなったのでした。
他にもこの墓地には「延世大学校」の創始者アンダーウッドや、培材学堂の創設者アペンゼラーも眠っています。

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ホーマー.B.ハルバート(1863-1949)

「韓国人より韓国を愛した外国人」と称される人物
本国アメリカでなく韓国で埋葬を希望したのだそうです。

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なんと日本人のお墓が!

曾田嘉伊智(そだかいち)(1867-1962)という人のお墓がありました。
墓石には孤児の慈父と刻まれていて、鎌倉保育園(韓国)を創設し孤児の養育に当たった人物だそうです。


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これは宣教記念館
中には入りませんでした



以上で約3時間のウォーキングツアーが終了しました。
時短すれば2時間くらいで回ることもできるそうですが、私たちは午後に特に予定がなかったので、じっくりと見て回りました。青空の下と爽やかな風の中で本当に気持ちよい体験でした。

地図コース500番号入り.jpg
今回のツアーの地図
地図:Daum地図より

今回のコースはこれまでの韓国旅行で近くまで来ていたにもかかわらず全く存在を知らなかった場所ばかりでした。漢江と歴史が関連付けられたこのツアーは地味なようですが、李氏朝鮮の歴史をたどる奥の深いコースでした。「チョン・ドジョン」から「済衆院」まで韓国の歴史ドラマの登場人物にゆかりの場所がいくつも出てきて、多少なりともドラマ視聴が役立ったようです。

ツアーを通じての印象は、ソウルの中心を流れる漢江がずっと以前からそこにあり、今も流れ続けているという普遍的な面と、時代の流れに翻弄されながらそこで生きていた人々の歴史が、私にはとても対照的なものとして映り心に残りました。切頭山殉教聖地で見た、後の人々がこの地での出来事を忘れないように創作した作品群は、感情をストレートに表現する手法にちょっと圧倒された感もありましたが、現在、日本に比べて10倍以上も信者がいる訳ですから、播かれた種はしっかりと地に定着したようですね。

次に韓国を訪れた時も、またソウルウォーキングツアーに参加したいと思います。

ソウルウォーキングツアー
http://japanese.visitseoul.net/walking-tour

旅行記はまだつづきます 



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コメント 2

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 緑

素晴らしい。非常に役に立ちました。~*^-^*~
by 緑 (2017-07-11 16:49) 

花かんざし

緑さん、はじめまして~^^
コメントありがとうございます♪
これからこのコースに参加されるのでしょうか?
少しでもお役に立てて私も嬉しいです^^
ありがとうございます。

by 花かんざし (2017-07-11 19:20) 

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